高次脳機能障害と人となり
この週末は、リハビリテーションお休みです。
何となく開放感があるものですが、だからといって、何か特別にすることがあるわけでもありません。
普通に週末の休みを過ごしていくわけです。
このように書くと、
「あんたは向上心がない」
「他の人(家族の会の方々)はもっと趣味をもって活動している」
「本を読むなど、知的活動をすべき」
のようなことを家族からいわれます。
といわれても、わたし自身は特に必要だと思わない(感じない)限り、そのような活動をするつもりはありません。
なので、それなりに言い合いになります。
確かに、かつてのわたしは、実に多趣味で、活動的(体を動かすのが好きというような意味とは違います)でしたかね(よくわかりませんが)。
本も読んだし、映画も見たし………
ここでいわれるところの知的活動(?)、創造的活動(?)を結構していたのだと思います。
でも、今は特に必要でない限りは、何某かの活動を積極的に行うことはありません。
消極的なのでも、非創造的なのでもなく、単に、活動する必要性のあるなしで判断しているということなんだと思います。
ある意味で、これって非常に合理的なのかなとも思います。
家族からすると、かつてのわたしとの違いが激しく、その乖離に得心が行かないのでしょう。
毎度そのようなことで責められるのですが、そもそも、かつての自分と今の自分の違いすらあまり強く認識していないので、怒りの意味合いに非常な疑問を感じるわけです。
「なんでそんなに怒るのかな?」
と。
もう少し加えていうと、そもそも今回のこの状況=つまりは、わたしの趣味嗜好、行動様式、活動形態が変わってしまったこと、は、わたしの望んでいたことではないわけです。
仮に、わたしが望んでそうしているのであれば、責められるのも致し方ないでしょう。
しかし、これはあくまでも事故によるものなのですね。
わたしが高次脳機能障害になったが故の、さまざまな現象は、あくまでも事故の所為であって、個に帰すようなものではないんじゃないかな~、と思うわけです。
強いていうなら、今回の加害者の所為なんじゃね、ってことで。
といって、そんなことを誰かのせいにしたとことで、どうしようもない(誰かが責任をとれば、わたしが元に戻るというわけではない)ことでして、あんまり意味がないんじゃないかと思います。
お願いしたいのは、好きにさせてくれっていうことかな。
仕事はちゃんとしてます(たぶん)。
会社に行ってるし、給料もらってるし(たぶん)。
だから、うちで何をしていてもいいんじゃないかと思うわけですね。
特に趣味はないかもしれない。
プラモデルも作らなくなった(買ってあるのはかなりたくさん(数百個)残ってるけどね)。
本も読まなくなったし、映画も見なくなった。
でも、それが今のわたしなんですね~。
さあ、困った。